マンガはストーリーマンガだけにあらず!
と、言わんばかりに、マンガノにはたくさんのエッセイマンガがアップされています。
ふとした日常のこと、ちょっと想像もできないような体験など、エッセイマンガは「ネタ」こそ多種多様ですが、現実の出来事をマンガにするには、独特な技術が必要になるでしょうし、ストーリーマンガを描くのとはまた異なる苦労もあるはず。では、エッセイマンガの先達は、どうやって現実の出来事をマンガへと「調理」しているのでしょうか。
今回、エッセイマンガ創作活動の酸いも甘いも(主に“酸い”を)お話してくれたのは、福満しげゆき先生(@fukumitsuu ※Twitterの運営は「妻」による)。鬱屈とした青春時代〜結婚へと至る時間を、独特なトーンで描いた自伝的作品『僕の小規模な失敗』(青林工藝舎)で注目され、「妻」や「育児」を題材に『うちの妻ってどうでしょう?』(双葉社)や『妻と僕の小規模な育児』(講談社)といった、数多くのエッセイマンガを生み出してきた福満先生が、ネタの見つけ方、ネタの枯渇との戦い、はたまたエッセイのルールといった、舞台裏を赤裸々に語ってくださいました。「マンガ家の狂気」すら感じさせる、福満先生の「ガチ」を追い求めたマンガづくりのプロセスは、きっとあなたのマンガづくりの刺激になるはず!
- 「自分の人生を肯定してみる」から始まった、エッセイマンガづくり
- 自分は特別な人間ではない。だからネタにするのは、みんなが共感しやすそうな出来事
- 苦行のごとき掟。福満流、エッセイマンガを描くルール
- 現実の出来事、実在の人物をマンガ化する技術
- 「この家に生まれからには、マンガのネタになることは我慢してくれ」ガチのエッセイマンガを描く狂気
「自分の人生を肯定してみる」から始まった、エッセイマンガづくり
──福満先生が初めてエッセイマンガを描かれたのは『僕の小規模な失敗』ですよね。なぜ、ご自身の体験をマンガにしようと考えたのでしょうか。
福満:その……若い頃からモテなくて、彼女がいなくてつらかったんですね。自分の人生を肯定的に捉えることができなかったんです。ただ、その後、結婚することになって、初めて自分の人生を肯定できそうな気持ちになったんです。だから、結婚をゴールとして、そこにいたるまでの過程をマンガにしてみたいなと思ったのが『僕の小規模な失敗』を描いたきっかけでした。
──それまではずっとストーリーマンガを描いてこられたのですよね。エッセイマンガにはすんなりと移行できたのでしょうか。
福満:ネームの段階では試行錯誤がありましたね。『僕の小規模な失敗』はかなり細かいコマ割りになっていますけど、最初はストーリーマンガと同じ感覚で、わりとゆったりとしたコマ割りにしていたんです。でも、ゆったりしたまんまだと、「結婚」というゴールにたどり着くまで、一体何ページ必要なんだ、と。それで、細かくコマ割りして、1ページに情報を圧縮して入れたんですが、「これで描いていこう」と思えるネームにいたるまでは、何度も描き直しましたね。
──確かに福満先生の作品はどれも1ページの情報の密度が高いです。『僕の小規模な失敗』の終盤では、1ページに20コマ以上描かれていることも珍しくありません。
福満:当時作品が掲載されていた雑誌では、僕のような新人の作品は短い方が掲載されやすいということを経験的に知っていたんですね。だから1話8ページでまとめていたのですが、エッセイマンガの8ページで、他の何十ページもある作品と同じような読後感を持ってもらうためには、密度を上げるしかないわけです。それに、掲載誌は隔月刊だったので、ゆったり描いていたら話が進まない。だから高密度になったのであって、自分から望んでそうしたわけではないですね(笑)。
──「高密度」が福満先生の持ち味であることには自覚的だったのでしょうか。
福満:その後、いろんな編集者さんに読みやすくする工夫を教えてもらったのですが、最初に評価してもらえたのが『僕の小規模な失敗』だったので、それ以降、セリフを少なくするのが不安というか……怖くて密度を落とせなくなってしまったんです。
──結婚にいたるまでのエピソードをすべて描こうとすると、あれだけの密度になるのも理解できる気がします。
福満:いや、そんな計画的に描く余裕なんて全然なかったです。いま振り返れば「あのエピソードを入れればよかった」とか、「あのエピソードはもっと話数を使って描くべきだった」と思う部分は多いです。いまの自分ならば『僕の小規模な失敗』はコミックス10冊分くらいには膨らませられるなーと思います(笑)。
──ネタを使い過ぎた(笑)。
福満:そうなんですよ。あれだけ細かく描いたつもりでも、説明不足になっていると感じる部分もあります。当時は自分の日記の中から大きな出来事を描く、くらいのことしか考えていなかったんです。
──その日記は、マンガのネタにするために書いていたのですか。
福満:いやいや、そんなことはないです。当時、ほとんどの人が卒業しているのに一人高校に通っていたりしていて頭がおかしくなりそうだったので、精神のバランスを保つために書いていたようなもんです。
──エッセイマンガを描くにあたって、影響を受けたものなどはあるのでしょうか。
福満:マンガ家を目指す以前の話ですが、さくらももこ先生の『もものかんづめ』や『さるのこしかけ』といった(活字の)エッセイが好きでして。文字だけなのに軽妙で、マンガのような読後感があるように感じていたんです。他には大槻ケンヂ先生や中島らも先生のエッセイなんかもよく読んでましたね。自分がエッセイマンガを描くにあたって、とくに影響が大きかったのは山田花子先生の『自殺直前日記』ですね。
──『自殺直前日記』のどんな部分に影響を受けたのでしょうか。
福満:『自殺直前日記』を読むと、「相手の態度にこう思った」みたいな、山田先生の考えの掘り下げがすごかったんです。でも、僕自身はこんな風に物事を考えたことがなかった。あの……僕はですね、学も低くて、考えを掘り下げたり、自分や他者の心情に思いを巡らせたりすることが、それまでの人生でまったくなかったんですね。日記をつけるようになったのも、なんか嫌だなと思ったことを掘り下げて考えたり、整理するようになったのも、山田先生の作品を読んでからです。
自分は特別な人間ではない。だからネタにするのは、みんなが共感しやすそうな出来事
──さて、エッセイマンガを描く多くの方が、「ネタをどうする?」に悩んでいると思います。福満先生はこれまで本当にたくさんのエッセイマンガを描かれていますが、これらのネタがどこから来るのかお伺いしたいです。日常では様々な出来事に遭遇すると思いますが、「これはマンガのネタになる」「これはネタにならない」をどのように判断しているのでしょうか。
福満:いまと昔ではけっこう違いますけれど……いまならば「他の人も自分と同じような課題を抱えているんじゃないかな」とか「他の人もこんな経験して苦しんだことがあるんじゃないかな」と思えるものをネタにするようにしています。というのも、僕は別にすごいインテリじゃないですし、タレントさんみたいに芸に秀でているわけでもない。さらに、“ホームレス中学生”みたいな特別な経験もない、普通の人間なんです。こんな人間の出来事は、マンガにしてもまず読んでもらえないんです。だったら、突飛なネタではなく、読者さんも共感しやすいネタを拾おうかなと考えていますね。
若い頃はちょっと違って、自分が直面した悲惨な出来事だったりをネタにしようと考えていたんですが、それだとずっと同じような作品しか描けなくなってしまいますよね。ただ、『うちの妻ってどうでしょう?』を描いていた頃はまだトンガっていたものでして、「こんな、しょーもないことをネタにするのは常人なら不可能だ!それをあえてネタにする!」とかツッパって、妻がヨーグルトを3つ食べたとか、ほんとにしょーもないことをマンガにすることもありましたね。
──ネタが枯渇する、ということはないのでしょうか?
福満:もう、とっくに、10年以上前から完っっっ全にネタは枯渇しています。それでも、『うちの妻ってどうでしょう?』を描いていたあたりでは「あえて妻を出さないネタにしてやろう」みたいな、仕掛けや工夫をいろいろ考えていたので、あまりネタ不足に悩むことはなかったのですが、いまは大変ですね。今日中に原稿にしなきゃいけないのに、描くことが決まっていない、なんてことがほとんどですから。毎回ゲロ吐きそうになりながら考えてます。だから、若いときには考えられなかった「妻に相談して」ネタを考えたりもするわけです。
──「妻」に相談されてできたマンガにはどのようなものがあるのですか。
福満:『妻と僕の小規模な育児』は、妻に聞いた話がネタになることが多いです。この作品はタイトルどおり育児がテーマになっていますけど、僕は家にいる時間のほとんどは原稿を描いているか、描き終わって疲れて寝ているかなので、どうしても子どもの様子を取りこぼしてしまうんですね。だから妻に聞いた「今日こんなことがあって」みたいな話をネタに、「子どもがこんなことをしたようだ」とマンガにするわけです。
苦行のごとき掟。福満流、エッセイマンガを描くルール
──「妻」からの伝聞をエッセイにする、と。
福満:ただ、そこには自分なりのルールがあるんです。それは「自分が見ていない出来事を、自分が見たものとして描かない」です。あとは「人に聞いただけの話を“実際に起こったこと”にする」も禁じ手です。たとえば、妻から「今日、子どもが転んだ」という話を聞いて、それを自分の回想シーンなんかで描くのは禁止なんです。回想シーンということは、僕が見てもいないシーンを「実際に起こったこと」にしてしまうわけですから。だから、こういう話をマンガにするときは、「子どもが転んだというけれど、それはオモチャにつまずいたのかな?」と、「人に聞いた話から、自分が想像したこと」と分かるように描かなければならない。「人に聞いた話から、自分が想像したこと」は実際にあった出来事ですよね。ですから、「妻に相談して」できたネタというのは、正確には「妻に聞いた話から自分が考えたこと、想像したこと」をマンガにするということです。
この縛りって結構やっかいなんです。妻から「今日、子どもが転んだ」という話を聞いた、というネタだったら、マンガのなかでは妻のセリフの横に子どもが転んでいる絵を描きたくなります。でも、これはダメなんです。妻が見たものを、自分が勝手に可視化してしまうわけですから。ルールに忠実にこのシーンを描こうと思ったら、自分の後頭部とかを描いて、「妻の話を聞いて、子どもが転んでいるところを想像している自分」にしなければならないわけです。
「想像」や「自分が思ったこと」を描くのは、エッセイマンガにおける数少ない自由な領域です。たとえば僕が誰かと会話していて、現場で明確にその人に対してなにか思えていたわけではないけれど、マンガ化するときに改めて思ったことを整理して、「心の中のセリフ」として描く。これは僕はありだと思っています。
──なるほど。かなり厳しくルールを決めているんですね。
福満:昔はもっと、思い出せないくらい細かくいろいろルール決めていたんですけど、要は「ウソは描かない」ですね。ただ、これも自分ルールに過ぎず、現実を完璧にマンガにしているわけではないです。たとえば「その場にいたけど、そこで起きた出来事に影響しない人」はマンガにするうえで削ったりはします。「いなかった人をいたことにする」みたいな書き足しは禁止だけど、削るのはありです。
現実とマンガの相関性に関しては、キャラデザインでもよく突っ込まれます。マンガにおける僕と、実際の僕の顔が全然似てないじゃん、みたいに。これに関しては、別に過剰に美化しているわけではないですし、マンガはあくまで商品なので、自分なりに上手に描けて、読者さんに親しんでもらえる造形にデザインにしているわけです。
──すごく根本的な質問なのですが、そういったルールはなぜ必要だったのですか。
福満:そうですね……なんでだろう(笑)。「ウソは描かない」にこだわってマンガを描いていると、ウソっぽく感じる作品が許せなくなるというか……。愚直に描いたほうがいいんだ、みたいな、いま思えばなんの価値もないパンク的なこだわりというか……いや、エッセイというジャンルで勝負するなら作品の根本に影響するウソがあってはいけないですよね。だから、特に気に入らないのはエッセイ風ストーリーマンガですよね。この話はフィクションです、と明記してあっても、読む人は意外とエッセイだと感じてしまうこともあるので。どの作品がそうだとは言いませんが(笑)。
──ご自身に課したルールというのは、エッセイマンガをリアルで面白くするためのルールであり、他のエッセイマンガに対する「ふざけんじゃねえ」精神の表れでもあるわけですね。
福満:いや、「ふざけんじゃねえ」だけですよ(笑)。だってマンガを面白くするんだったら、ルールなんか決めずに融通を利かせた方がいいわけですから。ただ、若い頃はこうしたルールも曖昧なまま描いていましたね。『僕の小規模な失敗』に、いま振り返ると恥ずかしくなるシーンがあるんです。
右下のシーン、エッセイマンガとして絶対にやってはいけないルール違反なんですよ。友人とその彼女の様子が描かれていますけど、そこには自分がいない。つまり、自分が見ていないシーンを“実際に起こったこと”として描いてしまっているんですね。ルールにならえば、このシーンは意地でも「自分が思い浮かべたこと」として描かなければならない。『僕の小規模な失敗』はもともと、自分の体験をベースにしたストーリーマンガのつもりで描き始めたので、エッセイという概念が曖昧でこうしたシーンを描いてしまったんでしょうね。Twitterにアップするときもこのシーンだけは恥ずかしくてカットしました(笑)。
──「いまと昔ではルールのありようが違う」とお話してくださいましたが、ずっと普遍的に守られているルールは、「ウソは描かない」なんですね。
福満:そうですね。『僕の小規模な失敗』の頃はもっと突き詰めていて、作中に登場する背景とかも現実に即していないといけない、なんてことも考えていました。だから、マンガを描くにあたって、当時働いていたお店とか歩いた道とか、全部の場所に行って写ルンですで写真を撮って資料にしてました。なんてことない背景だったら、「大体こんな感じ」で描けばいいんですけど、当時はそれすらルール違反だったので、頭おかしくなりそうになりながらリアルな表現にこだわっていましたね。
いまは、ここまではやっていません。街中で起こった出来事をマンガにするならば、背景の街は「大体こんな感じ」で描いています。リアリティの追求もクソもない、ヌルいエッセイマンガ描きになってしまいました……。
現実の出来事、実在の人物をマンガ化する技術
──ここからは、実際にマンガにしていく作業について伺います。ネタを一つのお話に膨らませていく、福満先生のプロセスを教えてください。
福満:「子どもが僕の似顔絵を描いてくれた」みたいな印象的な出来事があったとして、それをマンガにするには大体下の3パターンですね。
昔はネタもあって、こんなガイドラインみたいなものがなくてもダダダーとマンガにすべきプロットを描けていたのですが……。
──では、この3つの手法は体験的に得られた「いまの」マンガづくりの方法というわけですね。
福満:そうですね。こうやって手法を整理したのも、『妻と僕の小規模な育児』を始めた後のことなので、つい最近のことですね。ネタがない状態でもマンガを1本描くためのテクニックみたいなもんです。
──「実際にあった出来事」を描くのに、演出や強調をすることもありますか。
福満:それはもちろん必要です。あくまで楽しむためのマンガなので。読者さんの予想を裏切る動きや演出がなければ、それはマンガではないですよね。「子どもが転んだ」というシーンを描くならば、マンガチックに面白く描くべきです。たとえばこのシーンなんかも……
妻が寝たままジャンプしたのは本当ですけれど、実際はこんなに高く飛んだわけではない。でも、マンガならば高く飛んだように描いた方がコミカルで面白いですよね。
──以下のシーンも、現実には目は光っていないし、こんなに一瞬で服も髪も変わらないですよね。
福満:言われてみればそうですね。実際には服を買いに行く時間も、美容院に行く時間もあったはずですが、そこはカットして見せていますね。このシーンはマンガチックな表現が際立ってますね。
──キャラクターのデザインに関しても伺いたいです。現実に生きる人を、マンガ的なキャラクターとして描くためには、どんな方法がありますか。
福満:僕に限らず、ほとんどのマンガ家さんができることだと思いますが……。あまり期待に添う答えにはならないと思いますが、髪の毛がピョンと立っている、とかマンガチックなキャラクター化の要素はもちろん付け加えています。こうした強調をしないと、同じコマにキャラがたくさん出てきたとき、誰が誰だか分からなくなってしまいます。僕の場合、手塚治虫先生や藤子不二雄先生といった時代の作品の雰囲気を出したいと思っているので、キャラクターの髪型や服装はだいたい固定です。
──言われてみると、「僕(福満先生)」も「妻」も大体同じ服装ですね。現実には、もっといろいろな服を着ているけれど、キャラクターとして認識しやすくするために、服装を共通化しているのですか。
福満:もちろんそうですね。妻が作中でよく着ているワンピースは、団地に住んでいたころに現実の妻がよく着ていたものですね。ただ、シーンに応じて、普通のズボンとTシャツに替えたります。たとえば、「妻がお腹を出す」というシーンを描こうとしたとき、ワンピースだったらパンツまで描かなきゃいけないので(笑)。
──なるほど。すごい余談ですが、先生の作品では、パンツがギリギリ見えない太もも、という描写が多いですよね(笑)。
福満:そこは、いってみればアイキャッチみたいなものです(笑)。雑誌だったら他にたくさんマンガが載っているのだから、そういう「つかみ」みたいなものがないと、読者さんも入っていきにくいですよね。
──背景の描き込みに関しても教えてください。エッセイマンガでは背景をあまり描かず、余白を多くとる作品もあると思いますが、福満先生の作品はどれもかなり背景がしっかりと描き込まれている印象があります。これは背景を描き込むことで、リアルで面白いエッセイになるから、という狙いがあったりするのですか。
福満:いえ、それは違いますね。確かに背景が白っぽかったり、トーンだけ、という作品も見ますが、エッセイマンガとしてはこちらの方が正しい描き方だと思っています。描き込み量は読むテンポにも影響しますし、省略できる部分は省略して、キャラや作品で描かれている体験にフォーカスできる方がいいですよね。それに、抽象的に描いた方が、「ウチもこんな感じだわー」と読者も感情移入がしやすくなると思うんです。
僕がそう描かないのは、こうしたエッセイマンガを描く技術を身につけられなかったからです。あと、ストーリーマンガへの未練や、描き込み量を落とすことに不安があったから、という理由もありますね。
「この家に生まれからには、マンガのネタになることは我慢してくれ」ガチのエッセイマンガを描く狂気
──ご家族のことをエッセイマンガにする、というのは結構センシティブなことだと思います。マンガに描くことで、もしかしたら家族を傷つけてしまうかも、と考えることもあるのでしょうか。
福満:それは難しい質問ですね……。まあ、この家で生活していけるのは、エッセイマンガがあるからですよね。だったら、マンガのネタになるのは我慢してくれよ、という気持ちですかね。あと……家族とはいえ自分以外の人間のことなので、結構シビアなネタだったとしても、「えーい、描いてしまえ」という感覚かもしれません。自分のことを描くときはユルく描くくせに。自分がかわいいので、自分のことは悪く言われたくないんですよね。我ながらひどいこと言ってますね。でも、ここは狂気みたいなもので、家族といえど作品が面白くなるのを邪魔しないでほしいんです。『妻と僕の小規模な育児』は始めたあたりは、リミッターを外して、頭おかしくなって描かないとエッセイマンガなんて描く意味がないと思っていましたから。でも売れず、編集者さんと話し合ったりして、いまはユルーく描いてますけど。
──福満先生はかつて、エッセイマンガで重要なものとして「捨て身」「ガチ度」を挙げていました。実際、『僕の小規模な生活【回想編】』(コミックス5〜6巻)は身を切るような赤裸々ぶりが本当に強烈です。
福満:5〜6巻!あの辺はもう全リミッターを解除して、120%の力で描きました。僕もいまだに怖くて読み直せていないくらいです。
──「捨て身」で描くことが必ずしも売り上げに接続しないのだとしたら、なぜここまでご自身をさらけ出せるのでしょうか。
福満:僕が「捨て身」にこだわるのは、売れる売れないの話ではなくて、やはりそれが自己表現だからです。自己表現のために捨て身でガチで描いたエッセイだからこそ、ストーリーマンガを越えるマンガ作品になるんだと僕は思っているんですね。自分でも5〜6巻はやり過ぎたかも、とは思いますが、それでも「描き切った!自己表現をかましてやったんだ!」と、脳内麻薬が出てるんじゃないかと思うほど、やりきった感覚がありましたね。もっとも、それで売れるわけではなく、連載が終わってしまったので、もしかしたらガチすぎたのがいけなかったのかもしれません(笑)。
──このインタビューも、かなり赤裸々で捨て身なものになっていると思います(笑)。最後に、マンガノにもたくさんのエッセイマンガがアップされていますが、こうした後進のエッセイマンガ家の皆さん、なにかメッセージをお願いします。
福満:すでに何かを描いている人たちにアドバイスやメッセージを送るなんておこがましいですが……、もしもこれから描こうとしている方には、エッセイマンガは描きやすいジャンルなのでぜひ挑戦してください、とお伝えしたいです。とんでもないストーリーを創造する必要はないですし、必ずしも絵がめちゃくちゃ上手である必要もないですからね。間口の広い世界だと思っています。
──ありがとうございました!
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